Anarchive n°5 - FUJIKO NAKAYA 中谷 芙二子
FOG 霧 BROUILLARD


略歴

中谷芙二子の航跡
 
1933年、北海道札幌市に生まれる。雪氷研究の草分けとして世界的に知られる物理学者で、当時北海道大学理学部教授の職にあった中谷宇吉郎の次女。日本女子大学付属高等学校(東京)を卒業後渡米し、イリノイ州ノースウェスタン大学美術科に入学。57年同大学を卒業後(B.A.)、59年までパリとマドリッドで絵画を学ぶ。60年にシカゴのシャーマン・アート・ギャラリーで油絵二人展を開催し、同年帰国。62年、東京画廊で日本での初個展を開き、油絵12点を発表した。

1960年代:E.T.A.参加から大阪万博へ
66年、ベル電話研究所の科学者ビリー・クルーヴァーと画家のロバート・ラウシェンバーグらアーティストとエンジニアからなる実験グループが主催するパフォーマンス「九つの夕べ:演劇とエンジニアリング」(ニューヨーク)にパフォーマーとして参加。同年、同グループによって結成されたE.A.T.(Experiments in Art and Technology)の活動に加わる。そこには、ジョン・ケージ、マース・カニングハム、ジャン・ティンゲリー、アンディ・ウォーホルらも参加しており、テクノロジーを積極的に導入することで、エンジニアとアーティストとのコラボレーションによるプロジェクトの実現をめざしていた。69年、E.A.T.のメンバーや他のエンジニアらとともに、70年の大阪万博「ペプシ館」のデザインチームに加わり、パビリオン全体を人工霧で覆う大規模な作品を制作、霧の彫刻の第一作となる。
以後、代表作となる〈霧の彫刻〉シリーズは、建築や公園といった公共空間を中心に、アーティストや科学者とのコラボレーションによって展開していく。

1970年代:ビデオアート制作開始から、プロセスアート設立
大阪万博の翌71年、E.A.T.東京初の国際プロジェクトとなるグローバル・プロジェクト《ユートピアQ&A 1981》(銀座ソニービル)を、メンバーの小林はくどう、森岡侑士とともに制作する。このプロジェクトは、東京、ニューヨーク、ストックホルム、アーメダバードの4都市をテレックスでつなぎ、各都市の会場への来場者が10年後の1981年について自由に質問と回答を交換するという開かれたネットワークを提案した。個人間のグローバル・コミュニケーションの意義と重要性への着目は、現在のインターネットに先駆けたものであった。
作品《水俣病を告発する会-テント村ビデオ日記》(72年)は、チッソ本社のある三菱重工ビル前で抗議の座り込みを行う支援者たちの様子をビデオで記録し、現場にモニターを持ち込んで、彼ら自身が自分の映像を閉回路で見られるようにするなど、ビデオのフィードバック機能を効果的に用いる試みであった。
また、同年、山口勝弘、東野芳明、かわなかのぶひろ、小林はくどうらとともに「ビデオひろば」を結成し、既存の文化・芸術にとらわれることのない、プロセスとコミュケーションに重点をおいたビデオのあり方を模索した。そして73年には、知恵の記録と継承、共有(シェア)という観点から、老人ホームに住む人々と交わしたインタビューを集積するビデオプロジェクト《老人の知恵=文化のDNA》を、小林はくどう、森岡侑士と共同制作した。卵を立てる手の動作を、一切の編集、カットなしで撮影した《卵の静力学》(73年)、エンピツをナイフで削ることのできない児童が社会問題となったことに示唆され、エンピツを削る手の動きを記録した《コーディネーション:右手/左手》(79年)などの作品も、〈手〉のシリーズとしてこの時期に発表されている。
79年、アーティストによるビデオ作品の配給を目的とした株式会社プロセスアートを設立し、今日に至る。 

1980年代:活動領域の拡大
80年、「ビデオギャラリーSCAN」を東京・原宿に開設。国内外のビデオ作品の個展を開催するとともに、年2回、若手ビデオアーティストの活動支援を目的に公募展を行い、多数のビデオアーティストを世界に送り出した。87年からは「国際ビデオ・テレビ・フェスティバル」(スパイラル、東京)を主催し、世界各国のビデオ作品の上映やシンポジウムを実施する。この時期、〈ビデオ彫刻〉のシリーズとして、《滝:写像された川》(宮城県美術館、81年)、《溶解テレビ》(富山県立美術館、83年)、《四つの筒井戸》(東京国際美術館、90-91年)などを発表している。
一方、霧の彫刻シリーズでは、76年に《アース・トーク》(第2回シドニー・ビエンナーレ、オーストラリア文化賞)、 80年に《霧の湖》(第11回国際彫刻会議、ワシントンD.C.)を発表。同年、トリシャ・ブラウン・ダンス・カンパニー公演のための霧の舞台装置《オパール・ループ/雲》(ニューヨーク/81年、96年、2010年に再演)、続いてビル・ヴィオラ(音楽)とともに、川治温泉の渓谷を舞台に《男鹿川・霧の彫刻》を制作し、他ジャンルのアーティストとのコラボレーションという新境地を拓いた。83年には《アース・トーク》が、オーストラリア国立美術館(キャンベラ)の開館とともに彫刻庭園に常設展示され、《砂漠の霧微気象圏》と新たに命名された。この作品は、京都大学の気象学者・光田寧教授との共同プロジェクトで、砂漠の成因を解明する実験のプロトタイプという学究的側面をもっていた。

1990年代:公共空間への展開
92年に、東京青山スパイラルでの「JAPAN'92 第3回国際ビデオ・テレビ・フェスティバル」を成功させた後、個人邸宅から国営公園まで公私を問わず、さまざまな場所で霧の彫刻の制作に取り組む。92年には、85年から計画していた立川市の国営昭和記念公園・こどもの森に、常設としては最大規模の作品となる《霧の森》を完成。子どもたちが霧のなかで自然と触れ合い体感する、新しい公園施設を実現し、翌年、吉田五十八賞特別賞受賞。94年には、国際的な雪氷学者である父、宇吉郎の業績を讃えて建設された「中谷宇吉郎雪の科学館」(加賀市)の中庭に《グリーンランド氷河の原》を制作。また、海外では、スペインのグッゲンハイム美術館ビルバオで開かれた「ロバート・ラウシェンバーグ大回顧展」(98年)のオープニング・イベントのために制作した《F.O.G.》が、翌年、同館のパーマネント・コレクションとなった。

2000年代:時代の要請のなかで
自然との共生への取り組みが、世界で新しい局面を迎えるなかで、霧の彫刻は、そのダイナミックかつ実験的な性格と、自然や環境との交歓がわかりやすく表現される作品性などによって、国内外で新たな注目と評価の対象となっていく。また、90年以降に頭角を現わしてきたアーティストらとのコラボレーションも活発化する。
とくに、マルチ・メディア・アーティストである高谷史郎との共同制作は、高谷のインスタレーション作品《IRIS》(バレンシア・ビエンナーレ、01年)、中谷の霧のプロムナード《オラス・デル・シエロ》(フォーラム・バルセロナ、03年/プロポーザル)、大規模な共同作品《CLOUD FOREST》(山口情報芸術センター、10年)など、長期にわたり世界中で繰りひろげられている。また、08年、第3回横浜トリエンナーレでは名勝三溪園で《雨月物語─懸崖の滝》を発表。気象センサーによる制御プログラムを開発・制作した市川創太(doubleNegatives Architecture)、照明アーティストの藤本隆行らとのコラボレーションにより、人工霧の発生を自然の側に委ねるという、大阪万博以来のコンセプトが、40年の年月を経てコンピュータの導入により実現された。《雨月物語》は、霧を媒介して自然の力を顕在化し、人間と自然環境に関する鑑賞者の意識の高まりを促すとともに、身近かな世界に対するまなざしに変化をもたらすという複合的意味において、ひろく話題と注目を集めた。
アートとテクノロジーのコラボレーション、芸術と自然の交歓、そしてさまざまなジャンルに通底する根源的な表現のあり方は中谷の原点であり、中谷や協力者たちによって形を与えられたその先端的実験の精神と探求心は、いまも多くのアーティストや専門家たちによって共有され、ひろがり続けている。